少女の頃、朝、目覚めてふと目を上げると、部屋の壁にできたばかりの新しい服が掛けられていることがあった。母が縫ってくれていたワンピースが、眠っている間に仕上がったのだ。新しい服は、ふんわりとした空気感を湛えて、今にも袖を通されるのを待っているように見えた。手縫いの裾線の柔らかさ。眩しいような、くすぐったいような、晴れがましい嬉しさに満たされて、私は布団をはねのける。そして服を胸に抱いて、キッチンの母のところへ駆け出していく。できたのね、ありがとう。早く着てごらんなさい。母は料理の手を休めずに、素早く振り返って笑顔を見せる。新しい布地のわずかにつんとする匂い。袖丈も、スカート丈も、ぴったりと合った服を身につけると、私は鏡の前で何度も何度も回ってみる。おしゃれをするということが、ただ純粋に幸福であり、喜びだった。そんな時代のことを、いま懐かしく思い出す。しかしやがて自我に目覚め恋をする頃になると、おしゃれは劣等感や隠しておきたい心の中の暗い部分を映し出す、鏡のようなものに変わっていった。自分がそれまで思っていたような人間ではなかったことに、いやおうなしに気づかされる。人と自分を比べては落ち込み、誰よりも素敵になりたいと渇望しても、どうしていいのかわからなかった。さらに混沌とした二十代は、生き方の迷いが服にもそのまま反映された。買っても買っても着る服がない。何を着ても満足できない。私らしさとは何なのか。自分を嫌いになる日々が続いた。それが少しずつ解消され、これでいいのだと思えるようになってきたのは、結婚し、三十代を迎えてからである。そして時を同じくしてファションにも、これだ、と言えるものがみつかっていった。自分に似合うもの、自分らしい服に辿りつくためには、まず自分自身を知らなければならない。